浮島弁財尊天の由来
鎌倉幕府没落(1333年)のとき、執権北条高時の弟四郎慧性が尊崇する
江ノ島弁財天が夢枕に立ち、「上毛の郷に霊地あり、そこへ逃れて居住し、
北条家の再興を図るべし」、とのお告げを受けた。そのお告げに従って、
弟荒間五郎友春と重臣三名を伴って多々良沼にたどり着き、恩林寺を建て、
東林雄丘和尚を開山(開祖)として(1353年に)北条家の菩提寺とした。
東林和尚に懇情して北条家の護り神である
江ノ島弁財天を勧請し、鎮守として建てた、と「恩林寺縁起」にあります。
この頃のものと思われる宝篋印塔(供養塔)の笠の部分が三個、
1978(昭和53)年に多々良沼から出土しています。
一方、邑楽町中野で祀られていた一つ橋弁天様が、大雨による洪水のとき、
浮島(弁天島)に流れついた、という伝説もあります。
応永年間(1394〜1427年)に
多々良四郎忠敬が鶉小城に居城という記録があります。
(なお後に鶉北部に城跡が発見され、鶉新田の城を鶉古城と称する慣わしと
なります。600年余にわたり、沼中に孤堂を護り続けられたのは、
多くの信徒による道普請や護岸工事をはじめとする尊信の行為が
あったからです。
春(五月)、秋(十一月)の祭礼には遠方からの参詣人も多く訪れますが、
最近では、周囲の多々良沼公園の整備が進み、季節を問わず賑わいを
見せるようになっています。 |