檀信徒の皆様へお知らせ

秋の弁財天祭2013年

11月3日(日)


今年も、多々良沼に、突き出している浮島、弁財天大祭が
開催されます。
日時:2013年11月3日(11月の第一日曜日)
例大祭の日となっております。
毎年、邑楽町民体育祭がこの日に開催されておりましたが、
今年は10月に実施いたしましたので、皆様心置きなく、
ご参詣にお出かけ下さるよ
うお待ち致しております。


弁才天(べんざいてん)

<蛇を従え、財や冨をもたらす女神>

         

 弁才天といえば、美と智恵と音楽の神として知られている。そしてまた、
鎌倉(神奈川県)の銭洗い弁天のようにお金を増やしてくれる神でもある。
 弁才天は、インド神話において「サラスヴァティー」と呼ばれる。
もとはインドのサラスヴァティーという河を神格化したもので、穀物を豊に実らせる河の神である。 サラスヴァティーは水多き地といった意味で、
弁才という意味ではない。弁舌の神「ヴァーチ」と結合して同一視され、
弁舌、学問、音楽の神となったとも、また川の流れのすずやかで
美麗な音から美音天、弁才天と訳したとも言われている。

 日本の弁才天信仰は、奈良時代に始まるが、単独に祀られるように
なったのは、中世になって財と福の神としての性格が加わってからである。七福神の一神として数える時は、才を財と書いて、財と福をもたらす
女神であることが強調されている。
 弁才天は、神道では市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と
同一視されている。

また仏教では、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身だとも
考えられている。さらに、梵天(ぼんてん)の妃であるとも、
娘であるとも言われている。
弁才天が福の神の仲間入りをしたのは、弁才天が蛇を使者に
用いることに由来すると思われる。蛇は世の東西を問わず財宝の
守護神であることから、
弁才天の福の神としての一面は、蛇に対する信仰の方から
強いられていったのであろう。
 
もっとも、インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』には、この神に関して
「世界の冨を知る」とか、「冨を伴侶にする」と述べられていて、
初めから福や冨の神としての要素はもっていたようである。
江戸時代になって、十二支の蛇、すなわち”巳”の日に弁才天の
守り札が出され、その霊験あらたかなことが大いに宣伝されたために
、弁才天信仰が民間に広まったと言える。
以来、巳の日は弁才天の縁日となった。

 近江(滋賀県)の琵琶湖・竹生島(ちくぶしま)弁天、
相模(神奈川県)の江ノ島弁天、安芸(広島県)の厳島弁天、
陸前(宮城県)の金華山弁天、大和(奈良県)の天川弁天を
五大弁天とされ、広く信仰されている。
 もともと、水の神であることから、水辺に祀るのが一般的だが、
奈良県の高野山のように、最高峰に祀られている例もある。 

弁才天に関する奇瑞(きずい)はいろいろ伝えられている。
 その一つ、江ノ島の伝承によると、かって江ノ島は海で、
そこに悪龍が住みつき
人々を苦しめていた。ところが欽明帝の頃、大地が震え動き、
海上に孤島が浮かび上がった。
その島に弁才天が降りてこられ、人々に災いをもたらしていた
悪龍を退治したと言う。

 通常、弁才天は琵琶を持った女神像で知られているが、
八本の腕に武器をもの、
あるいは人頭蛇身(じんとうじゃしん)の弁才天もある。

・ご利益
 鎌倉の銭洗い弁天では、弁天を祀る洞窟の涌き水でお金を洗うと、
お金が増えるというので賑わっている。
 東京・上野の不忍弁天では、財布に入れておくだけで金銭に
不自由しないといわれる
「巳成金」というお守りに人気がある。

 歌手になりたい、雄弁家になりたいというのであれば、
印呪(いんじゅ)を常に結び誦すれば、弁才天の助けによって、
それが叶うと言われている。


 


浮島弁財尊天の由来

鎌倉幕府没落(1333年)のとき、執権北条高時の弟四郎慧性が尊崇する
江ノ島弁財天が夢枕に立ち、「上毛の郷に霊地あり、そこへ逃れて居住し、
北条家の再興を図るべし」、とのお告げを受けた。そのお告げに従って、
弟荒間五郎友春と重臣三名を伴って多々良沼にたどり着き、恩林寺を建て、
東林雄丘和尚を開山(開祖)として(1353年に)北条家の菩提寺とした。
東林和尚に懇情して北条家の護り神である
江ノ島弁財天を勧請し、鎮守として建てた、と「恩林寺縁起」にあります。
この頃のものと思われる宝篋印塔(供養塔)の笠の部分が三個、
1978(昭和53)年に多々良沼から出土しています。

一方、邑楽町中野で祀られていた一つ橋弁天様が、大雨による洪水のとき、
浮島(弁天島)に流れついた、という伝説もあります。
応永年間(1394〜1427年)に
多々良四郎忠敬が鶉小城に居城という記録があります。
(なお後に鶉北部に城跡が発見され、鶉新田の城を鶉古城と称する慣わしと
なります。600年余にわたり、沼中に孤堂を護り続けられたのは、
多くの信徒による道普請や護岸工事をはじめとする尊信の行為が
あったからです。
春(五月)、秋(十一月)の祭礼には遠方からの参詣人も多く訪れますが、
最近では、周囲の多々良沼公園の整備が進み、季節を問わず賑わいを
見せるようになっています。

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